September 09, 2006

多摩の謎2・3

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 「北多摩・南多摩・西多摩があって東多摩はないの?」というのが三多摩の謎の1でした。

 ご存知の方も多いと思いますが、強引に続きを書いてしまいます。「多摩の謎2」です。

1871年(明治4年)の廃藩置県の12月、多摩郡は東京府と入間県に分割されますが、すぐに全域が神奈川県に転属されます。

 「なぜ多摩は神奈川県になったのでしょう?」

 多摩の謎2です。

 ここであの陸奥宗光が登場します。

この時陸奥宗光は神奈川県知事(当時の名称は神奈川県令)です。

「横浜に居留する外国人の遊歩区域に含まれるので、多摩郡は神奈川県たるべし」という上申書を出します。これが採用されてしまうのです。

 神奈川の領域をひろめたいから出した上申書です。簡単に東京が多摩を手放したあたり、多摩は重視されていなかったようです。

陸奥宗光のウィキペディアはこちらへ

 ただし1872年(明治5年)の9月に中野・杉並区域の多摩郡だけ東京府に移管されます。これは東京市街に近いからという理由なのでしょう。

 1878年(明治11年)神奈川県に属していた多摩郡は3分割されます。これが北多摩・南多摩・西多摩の3郡です。東京府下の多摩地域は「東多摩郡」となりました。

この「東多摩郡」は後に「南豊島郡」と合併して消滅しました。

 1893年(明治26年)になって、神奈川県の多摩郡がなぜか東京府へ移管されます。

 

ここで「多摩の謎3」です。

「なぜ多摩は、神奈川から東京にもどったのでしょう?」

 

 これが1894年の日清戦争と関係があるというのです。

当時多摩地域は、自由民権運動の中心地です。(五日市憲法草案もありました。五日市憲法はこちらへ)自由党の主要勢力範囲となってもいます。

 養蚕業も盛んで製造業者や、商品を横浜港へ運ぶ流通業者も軍事拡大より産業振興を求めていました。

 (このブログの中にも福生の「さなぎ屋」さん=蚕のさなぎを分けていた農家や、立川のゼルコバさん=ギャラリーの名前は「繭」でお店は繭を作っていた農家など、養蚕業が盛んだった頃をしのばせることが登場していました。)

 政府は日清戦争を前に海軍力増強予算を帝国議会で成立させたいと考えていました。

 これに対して多摩を中心とする自由党が議会でこの案に反対し、さらに自由党急進派は東京で暴動を繰り返して軍事拡大路線反対を唱えていました。

 そこでこの急進自由党を東京の勢力下において管理壊滅させてさらに議会での自由党の勢力も弱めようというねらいで、多摩を東京に移したというのです。

 「自由民権運動を起こしている連中を神奈川においておいたのでは、目がゆきとどかない。東京に入れてしまえ」ということでしょうか。

 さらに玉川上水上流の治水を握っている多摩地方を東京に入れておくねらいもあったそうです。

 多摩の住民にしてみれば「なぜ神奈川の水を東京にあげなければならんのだ」という思いがあったでしょう。東京からすれば「玉川上水の水を止められては困る」と考えたのでしょう。

 自由民権運動と玉川上水が、多摩を神奈川から東京に戻したようです。

 このブログに書いた昭島市の成隣小学校が「執中学舎」として産声をあげた時=明治6年、多摩は「神奈川県」でした。

 明治時代20年以上多摩は「神奈川県」だったのです。

 自由民権運動が盛んにならなければ、今も多摩は「神奈川県」のままだったかもしれません。

 以上ほとんどウィキぺディアを参考にしました。

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akishima123 at 09:23│Comments(0)TrackBack(0)

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