July 03, 2006

拝島大師の謎

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大日堂説明2 子供の頃「どうして昭島のこんな田舎に拝島大師のような立派なお寺があるんだろう」と不思議に思ったことがあります。今日はその謎のお話しです。

 昨日の記事は、定説のおねいの眼病祈願平癒、石川土佐守再建説を書いておきました。でも、ちょっと納得がいきません。勝手な想像をしてみました。

 年表です。1560年 桶狭間の戦い

       1561年 上杉謙信小田原(北条氏)近くまで攻め込む

       1568年 織田信長 入京

       1569年 武田信玄 滝山城を攻める

       1570年 姉川の戦い

       1571年 比叡山延暦寺焼き討ち

       1575年 信長 安土城を築く

       1576年 大日堂など再建

       1582年 本能寺の変

       1583年 秀吉大阪城築く

       1590年 豊臣秀吉の全国統一なる(北条氏照死す)

       1591年 徳川家康より大日八坊 朱印地として10石下さる

大日堂 北条氏照が、滝山城の鬼門除けとして大日堂を現在地に移したというのは、嘘ではないと思いますが、それほど重視していなかったのではないかと考えます。

 それが1569年の武田信玄の攻撃を、小さな滝山城が持ちこたえてしまう。「よくも、あの信玄に勝てたものよ」という声がおこっても不思議ではないでしょう。信玄軍が陣取ったのが、今の大日堂あたりであったことから「滝山城の鬼門除けの大日堂が守ってくれた」ということになります。

 そういう中で、石川土佐守の娘が眼病になります。「大日堂に行けば治る」とおねいも信じて、井戸の水で眼を洗います。信ずる者は救われると言います。おねいの眼病は、平癒します。

 1571年、織田信長が、天台宗比叡山延暦寺を炎上させます。その時延暦寺中興の師とされる慈恵大師の像を、敬甚大僧都が救出。諸国を回って、1578年に拝島の本覚院に安置したとされています。慈恵大師の像があるから拝島大師と呼ばれるわけです。

 北条氏照は、豊臣秀吉にも主戦論をとなえた人ですから、天下統一の夢をいだいていたでしょう。そういう人を延暦寺も頼って来ます。武田信玄を退けた鬼門の地を大切にし、延暦寺と結びたい氏照の気持ちもあって大日堂を再建する中に本覚院も建てることにしたのではないでしょうか。

  織田信長の手前、本覚院=拝島大師だけ建てるわけにもいかなかったのかもしれません。(大日八坊の八つのお寺のうち4つは、文化文政の頃廃寺となっています。)

 

 おねいの話も作ったか利用して、家臣の石川土佐守が大日堂を再建したことにしたのだろうと考えます。

 1590年北条氏照は、割腹します。延暦寺は、次に家康に助けを求めたのでしょう。1591年に家康から大日堂は10石を下されます。その当時の大日堂は、昨日の写真で鳩がいた公園辺りだろうと言われています。1732年(享保17年)に現在の丘の上に移されました。

 大日堂再建の1576年に、本堂の下に後世の改修費にと永楽銭一千貫を埋めたという伝承があります。そのまま埋められていれば鳩が遊ぶ公園の下です。移されたなら現在の石段の上の本堂の下にあるのでしょう。

 平成7年、拝島の隣の福生市熊川から大量の古銭が出土します。多くは永楽通宝だったとのことです。福生も北条氏照の支配が及んでいた地です。大日堂の埋蔵金伝承と関係があるのでしょうか?

 以上、拝島大師の謎についての管理人の勝手な想像でした。 

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akishima123 at 10:53│Comments(0)TrackBack(0) 昭島市の風景 | 昭島市拝島町

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