September 2006

September 16, 2006

昭島市 徹夜の祭り 日吉神社榊祭り

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日吉神社

 昭島市拝島町の日吉神社です。9月16日つまり今日の夜から明日の朝にかけて祭りがあります。

深夜の祭りです。「暁の祭り」とも呼ばれます。

榊(さかき)の大枝を神輿にしたものを担いで、午前0時から5時ころまで町内を練り歩きます。

日吉神社

 境内に戻ると榊の枝の先にある幸福が舞い込むという「心筒」を取りあいます。

 

 

 

志茂町屋台

 左は、志茂町の「屋台小屋」です。

加美町・奈賀町・志茂町の山車(だし)の巡行も行なわれます。

山車と山車が出会うと祭り囃子の合戦をします。

昭島市拝島町は、今日から明日にかけて熱く燃えます。

 

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September 15, 2006

多摩には空があるという 気になる看板

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そら 「そら、あります」

確かに。

「東京には空が無い」と言ったのは、高村智恵子でした。

 多摩には確かに空があります。

(昭島市の駐車場で)

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akishima123 at 07:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 気になる看板 

September 14, 2006

多摩38年の変化その4

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昔の写真2

 38年前のこの田んぼやコンクリート工場が、今や下の写真(田中団地やスパ昭島)に変貌をとげたことを前の3回で追いました。

 この「多摩38年の変化」は好評で、「もっと昔昭島の写真をたくさん撮影しておくのだった」と後悔しています。

 

 

田中町団地

スパ昭島

さて、

 

 

 

この変化と関係することを書いておきます。

セメント工場と言えば、五日市の石灰石を南武線経由で川崎まで運ぶために、浅野セメントが五日市鉄道(五鉄)を買収・延長しました。

 そのセメントと結びつく物に砂利があります。多摩川の周りには砂利採集業者も多くいました。

 けれど戦後大量に採取してしまい、多摩川の砂利が急速に減りました。

 昭和32年に小河内ダム=奥多摩湖ができたことで、新たな砂利の上流からの補給(?)もなくなり昭和40年頃には、多摩川の砂利採取は終わりました。

 セメント工場が消えたのもそのあとくらいだと記憶しています。

 奥多摩湖ができたことが、「多摩38年の変化その2」で書いた「その後多摩川は、この近辺では幸い氾濫していません。」と結びついてもいます。

 奥多摩湖ができるまでの多摩川の水の量は今よりずっと多く、何度も氾濫して住民を困らせてきました。以前書いた昭島市の築地が移転したのも、多摩川の氾濫が原因でした。

 古い写真の中に写っていたセメント工場から、砂利採集業者や多摩川の氾濫の跡など思い出して書きとめてみました。

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September 13, 2006

多摩38年の変化 その3 スパ昭島と肉のハナマサ

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昔の写真2

 38年前に管理人が撮影した写真にかすかに写っているセメント工場。38年が経って・・・・

 

 

 

 

スパ昭島 今は、「スパ昭島」があります。お風呂がメインですが、エステ・韓国式垢すり・タイ古式健康術などの各種ヒーリングもやっています。

 館内には、床屋(カットサロン)・焼き鳥屋・マンガコーナー・喫茶・レストラン・カラオケバー・ゲームコナーなどもあります。

 歌謡舞踊ショー・ビンゴゲーム大会・お誕生日プレゼント・カラオケ大会なども行い、午前割り引き・お達者割り引き=60歳以上の割り引き等各種割り引きも充実しています。

 送迎バスも昭島駅だけでなく高幡不動・日野駅を通るコースや村山団地・玉川上水駅・大山団地を通るコースまで用意しています。

なかなかがんばっているようです。

 

スパ昭島2

 健康ランド・スパ昭島のホームページはこちらへ。←インターネット割り引き券も発行しています。

 

 

 

肉のはなまさ 最近、そのスパ昭島の隣に「肉のハナマサ」が開店しました。肉や魚など食料品を安く販売しています。24時間営業です。

 

 

 

肉のハナマサ2 かつて本屋や『砂楽砂』という砂塩風呂の店があった場所です。

肉のハナマサ昭島店 

昭島市田中町3−8−8  

 

 

肉のハナマサ3 「スパ昭島」や「肉のハナマサ」は、これから38年後ここにあるのでしょうか?

肉のハナマサのホームページはこちらへ

スパ昭島・肉のハナマサの地図はこちらへ

 

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September 12, 2006

多摩38年の変化その2

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田中町団地

 38年前の写真は、現在の昭島市田中町団地付近でした。

 

 

 

 

田中町団地2

 昔は、「田んぼ」が広がっていました。どうでしょうか?まったく変わってしまいました。

 

 

 

 

田中町団地4

 国道16号側から見た田中町団地です。手前は「スパ昭島」の駐車場です。

 

 

 

 

田中町団地3

 38年前の写真で、後方におかしな建造物が見えていた方角です。あれは管理人の記憶では「浅野セメント」の工場でした。今は同じ場所に「スパ昭島」があります。

 この一画だけが、昔と同じ田を残しています。

写真で木があるところが38年前は、土手道で高くなっていました。

高くなっているのですが、一部削り取られて坂になっている部分がありました。

戦後すぐに多摩川が氾濫して拝島方面が水浸しになった時、土手を削って水を流した跡だと聞きました。

 その後多摩川は、この近辺では幸い氾濫していません。

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September 11, 2006

多摩38年の変化 その1

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昔の写真1 これは管理人が38年前に撮影した写真です。田んぼの中の道です。多摩のある場所です。どこでしょうか?

 

 

 

 

昔の写真2 これもほぼ同じ場所です。背景にうっすらと特徴的な建物(?)が、あります。

 

 同じ場所の38年後、つまり現在の写真は次回。

 

 

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September 10, 2006

昭島 十二神社の謎

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12神社1

昭島市玉川町の「十二神社」です。ひとつの神社なのに十二神社です。謎です。大げさですが。

  8月に書いた真覚寺「目黄不動」の近くにあります。2003年に移設されました。江戸街道と奥多摩街道の間にありましたが、その二つをつなぎ和田橋に伸びる道にぶつかるために移されました。

 

 

 

12神社2

 写真は7月に目黄不動と一緒の日に撮影しました。

 「これが目黄不動です」「これが十二神社です」と載せるだけなのもなー、と毎日考え続けました。それはウソですけど。

8月14日に目黄不動の記事を書いたのは、目黄が目黒や目白と関係があることを知ったからでした。(都心の方に多い五色不動がなぜ昭島にもあるのか今も不思議です)

目黄不動の記事はこちらへ

十二神社が、なぜ十二神社という名前なのか?管理人は気になるのですが、説明が神社のどこにも書いてないようでした。

 「他の人は気にならないのかなー」と9月になってしまいました。

するとちゃんと本に書いてありました。武蔵野郷土史刊行会・有峰書店共同刊行『多摩の歴史4 立川市・昭島市・福生市・瑞穂町・羽村町』です。

 昨日管理人の母の本棚で見つけました。羽村町とあるのは刊行が昭和50年だからです。

本文をそのまま写します。

「真覚寺より更に西方百メートル(昔の位置です)。そもそもの始めは十二権現といっていたが、明治二十九年に現社名に改められたのである。この神社は縁起よりも祭神の方がややこしい。即ち天地草創の神々で、日本書紀によると、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさづちのみこと)、豊斟渟尊(とよくむねのみこと)、の三神と、男女の神二神を一代として埿土煮尊(うじにのみこと)、沙士煮尊(すいじにのみこと)で一代、大戸之道尊(おおとのじのみこと)と大戸苫辺(おおとまべのみこと)で一代、面足尊(おもだるのみこと)と惺根尊(かしこねのみこと)で一代、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いぢなみのみこと)で一代合わせて四代、三神四代で天神七代といい、天照大神(あまてらすおおみかみ)、天忍穂耳尊(あめのしほみみのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鸕〔滋の右側=つくりに鳥〕草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を地神五神というのである。合計して七神と五神で十二神ということになるわけだ。」

 写すだけでも大変な説明です。実に欲張った神様のオンパレードです。本に書いてあっても管理人は「でもなぜ十二なの?」と納得がいきません。

 この神社だれが拝んだのだろうと気になりました。おかしな場所にあるからです。目黄不動は、築地(ついじ)の人たちが文化八年の洪水後川原の方から移った時に移転したものだとあります。この神社も築地の人たちが拝んだものでしょうか?

 そんなことを考えていると同じ本の中に次の記述を見つけました。

「築地の渡船場」 馬を耕作用に船で渡すので人は渡さないから税金を取らないでという文が万延二年(1861年)の陳情としてあるそうです。

 その陳情には「これは最寄の十二か村が川の両側へ耕作に通う渡舟であり、凡そ百五十年前からやっていることで・・・」税金・年貢は取らないでくださいという訴えです。

 管理人は、この「十二か村」の「十二」と「十二神社」の「十二」が関係していないのかな、と勝手に楽しんでしまうのでした。

十二神社の地図はこちらへ

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September 09, 2006

多摩の謎 2・3 訂正

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 多摩が東京に戻った理由は午前中に書いた以外にもあるようですので訂正しておきます。(早くもミスが見つかりました!)

 まず玉川上水は、1870年から72年の短期間ですが舟運が認められ、多摩地域と横浜だけの結びつきだけでなく東京との結びつきが強まりました。

 さらに中央線の前進(前身です・訂正)の「甲武鉄道」が1889年に開通します。これで多摩地域と東京の結びつきが非常に強くなります。

 多摩地域の人が、「神奈川より東京と結びつきたい」と考えるようになったようです。

 さらに自由党の中の分裂(多摩地域と神奈川地域)も関係したらしく、前回書いた以上に複雑なようです。もう少し調べてから、分かり次第また書きます。

 

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akishima123 at 14:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

多摩の謎2・3

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 「北多摩・南多摩・西多摩があって東多摩はないの?」というのが三多摩の謎の1でした。

 ご存知の方も多いと思いますが、強引に続きを書いてしまいます。「多摩の謎2」です。

1871年(明治4年)の廃藩置県の12月、多摩郡は東京府と入間県に分割されますが、すぐに全域が神奈川県に転属されます。

 「なぜ多摩は神奈川県になったのでしょう?」

 多摩の謎2です。

 ここであの陸奥宗光が登場します。

この時陸奥宗光は神奈川県知事(当時の名称は神奈川県令)です。

「横浜に居留する外国人の遊歩区域に含まれるので、多摩郡は神奈川県たるべし」という上申書を出します。これが採用されてしまうのです。

 神奈川の領域をひろめたいから出した上申書です。簡単に東京が多摩を手放したあたり、多摩は重視されていなかったようです。

陸奥宗光のウィキペディアはこちらへ

 ただし1872年(明治5年)の9月に中野・杉並区域の多摩郡だけ東京府に移管されます。これは東京市街に近いからという理由なのでしょう。

 1878年(明治11年)神奈川県に属していた多摩郡は3分割されます。これが北多摩・南多摩・西多摩の3郡です。東京府下の多摩地域は「東多摩郡」となりました。

この「東多摩郡」は後に「南豊島郡」と合併して消滅しました。

 1893年(明治26年)になって、神奈川県の多摩郡がなぜか東京府へ移管されます。

 

ここで「多摩の謎3」です。

「なぜ多摩は、神奈川から東京にもどったのでしょう?」

 

 これが1894年の日清戦争と関係があるというのです。

当時多摩地域は、自由民権運動の中心地です。(五日市憲法草案もありました。五日市憲法はこちらへ)自由党の主要勢力範囲となってもいます。

 養蚕業も盛んで製造業者や、商品を横浜港へ運ぶ流通業者も軍事拡大より産業振興を求めていました。

 (このブログの中にも福生の「さなぎ屋」さん=蚕のさなぎを分けていた農家や、立川のゼルコバさん=ギャラリーの名前は「繭」でお店は繭を作っていた農家など、養蚕業が盛んだった頃をしのばせることが登場していました。)

 政府は日清戦争を前に海軍力増強予算を帝国議会で成立させたいと考えていました。

 これに対して多摩を中心とする自由党が議会でこの案に反対し、さらに自由党急進派は東京で暴動を繰り返して軍事拡大路線反対を唱えていました。

 そこでこの急進自由党を東京の勢力下において管理壊滅させてさらに議会での自由党の勢力も弱めようというねらいで、多摩を東京に移したというのです。

 「自由民権運動を起こしている連中を神奈川においておいたのでは、目がゆきとどかない。東京に入れてしまえ」ということでしょうか。

 さらに玉川上水上流の治水を握っている多摩地方を東京に入れておくねらいもあったそうです。

 多摩の住民にしてみれば「なぜ神奈川の水を東京にあげなければならんのだ」という思いがあったでしょう。東京からすれば「玉川上水の水を止められては困る」と考えたのでしょう。

 自由民権運動と玉川上水が、多摩を神奈川から東京に戻したようです。

 このブログに書いた昭島市の成隣小学校が「執中学舎」として産声をあげた時=明治6年、多摩は「神奈川県」でした。

 明治時代20年以上多摩は「神奈川県」だったのです。

 自由民権運動が盛んにならなければ、今も多摩は「神奈川県」のままだったかもしれません。

 以上ほとんどウィキぺディアを参考にしました。

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akishima123 at 09:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

September 08, 2006

三多摩の謎 東多摩郡は?

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三多摩の恵み 写真は「多摩の恵」です。

 今日は三多摩の謎・三多摩に関する疑問を追います。

 

 

 素朴な疑問です。「北多摩・南多摩・西多摩の三多摩があって、なぜ東多摩が無いの?」という疑問です。

 答えを知っている人は多いと思いますが、それでも記事にしてみます。調べてみました。簡単に答えは見つかりました。ウィキペディアでわかります。

 ウィキペディアの「東京府」を見ると大体次のように書いてあります。

東京府(とうきょうふ)は、1868年から1943年まで存在した行政区画で、現在の東京都の前身です。(東京都って戦後できたのではなく1943年にできてたんですね)

 明治元年(1868年)に発せられた「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」により江戸は東京と改称されます。その翌月に元の江戸町奉行所支配地内を管轄する行政機関として東京府庁が設置されたことに東京府は始まります。

1872年(明治5年)、この地域(1878年に東京府内15区に編制)に加え、現在のほぼ「特別区」の範囲にあたる旧武蔵国の荏原郡・南葛飾郡・南足立郡・北豊島郡・南豊島郡・東多摩郡(南豊島郡と東多摩郡はのちに合併して豊多摩郡になる)を管轄するようになります。

 出て来ましたね「東多摩郡」が!!

さらに、1878年には伊豆諸島を、1880年には小笠原諸島を編入し、1893年には現在の「市部」と世田谷区の一部にあたる西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡の3郡が神奈川県から編入されてほぼ現在の東京都となりました。

 三多摩は明治時代前半は、神奈川県に属していました!

 多摩郡の方から見ると・・・1871年(明治4年)多摩郡は神奈川県となります。翌年東多摩郡の地域のみ東京府に移管されます。

 1878年(明治11年)神奈川県の多摩郡は、北多摩・南多摩・西多摩の3郡に分割されました。同時に東京府の多摩郡が、「東多摩郡」となります。これで多摩郡はなくなりました。

 1896年4月1日南豊島郡と「東多摩郡」が合併して豊多摩郡となります。これで「東多摩郡」は消滅します。さらに1932年(昭和7年)豊多摩郡も東京市に編入されて消滅しました。

 東多摩郡はどの辺か?

 「中野村・野方村・杉並村・和田堀の内村・井荻村・高井戸村」が、東多摩郡の村だったので、現在の中野区・杉並区にあたります。中野・杉並も多摩だったのです!!

 以上が「東多摩郡」の記事です。つまり「東多摩郡は存在したけれど消滅した」ということです。

でも疑問は残ります。じゃあ、「なぜ三多摩は神奈川になったり東京になったりしたの?」という疑問です。

三多摩の謎は続きます。

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